この国の未来を考える

車券購入に上限を設ける・その3

スーパースター戦およびSSシリーズの優勝戦は、まさしく現在のオートレースを象徴している結果になりました。いずれもトップスタートを切った選手がそのまま1着。益選手の場合は0ハンを叩いてですから、単純に出たなりという訳ではありませんが。
この結果自体にケチを付ける気はありません。少なくともスタートが速いというのは武器ですから、10周回・8周回を逃げ切ることは見た目よりも大変なことを理解しているからです。ただ私の気持ちとしては、後方から追い上げた岡部選手の走りが、これこそがオートレースなのだと体現しているようで目を奪われました。本当の意味で価値ある上りタイム3.389だったと思います。しかし吉原アナウンサーが実況していた通り、スーパースター戦の1~3着までが船橋所属とは示唆に富んだ結果だと思います。


日本のギャンブル環境は異常?

さて前回の引き続きです。
車券購入に上限を設けるという考え方のきっかけは、ある書物を読んだことでした。それは帚木蓬生(ははきぎほうせい)著「ギャンブル依存国家・日本」です。

この中に「諸外国におけるギャンブル規制」という項目があり、韓国の競馬では1レース当たりの購入金額が10万ウォン(現在のレートで約1万円)で、さらにネット投票は禁止されていると書かれていました。
他国の様々な規制も掲載されており、それらと比較すると日本のギャンブル状況の異様さがよく理解できます。この書物の宣伝をする意図はありませんが、興味のある方は読んでみてください。私自身は色々と考えさせられました。一言で言えば、今まで何の疑問を持っていなかったギャンブル環境が世界的に見たらかなり異常であるということです。

他国の規制を見てみると(特に欧州)日本では考えられないくらい厳しい条件を付けています。特に英国での厳しさは際立っており、カジノへの入場制限はもとより、一般市民への広告や場内でのアルコール禁止などがあります。これは、自分自身をしっかりと管理できる人間しかギャンブルをしてはいけない、という考え方なのでしょう。その正反対がアメリカと日本になります。もっともアメリカでも州によっては規制が厳しいところもあるようですが。

ギャンブル依存症に関しては、そうなる方が悪いという風潮が日本にはあるような気がしています。そのことについて意見を書けるほど詳しくはないので控えますが、私自身の感覚で言えば、ギャンブルに手を付ければ誰でも依存症になりうる可能性を持っているのではと考えています。
正直に告白すれば、私も間違いなく依存症でした。過去形で書いたのは、現在の自分の状態が依存症には当てはまらないからです。その辺の見極めをするためにも「ギャンブル依存症国家・日本」は有用だと思います。




ギャンブルを実施するなら依存症を輩出させない環境を!

前回、マイナンバーを利用して、と書いた意味は「依存症」になる人間を出さないためです。1人の人間のギャンブル行動を把握するにはそれを特定する手段が必要で、その方法があれば一ヶ月や年間単位での金額が把握できると同時に、上限金額を超えれば自動的に購入不可にするシステムを作ることができるからです。
「公」がそこまで管理するのはプライバシーの侵害ではないか、と思われるでしょう。おそらく人権侵害の要素を含んでいるのは間違いないと思いますが、ギャンブルをやらなければ侵害されることがないのも事実です。要は、前述したように「自分自身を管理できる人間」しかギャンブルをやってはいけないということです。

では、自分自身を管理する意味とは何でしょうか。
ギャンブルに限って言えば経済的に困窮しないこと。もっと簡単に言えばギャンブルが原因での借金をしないことです。「ギャンブル依存症」の判断基準は、ギャンブルをするために借金をしたか否か、だと私は考えています。

「なるべく不幸な人々を出さない」という社会の前提は、基本として経済的困窮者を出さないことです。ギャンブルを野放図にすれば、必ず一定の割合で「ギャンブル依存症」が発生することは世界的に見ても今や常識になっており、日本でもここ10年ぐらいでようやく認識されつつあります。しかし、その対策がされているとは言い難く、何よりも「公」自らが開帳しているのですから。

若い世代の人々が初めてオートレースに接した時、そこは「賭博=ギャンブル」をする場所だった。それはオートレースにとって良いことなのか、それとも悪いことなのか、私は後者だと思っています。
例えば、CS放送に出演している人たちや選手たちが車券購入を呼びかけるたびに、どうか不幸になってくださいと聞こえてしまうのは被害妄想でしょうか?

価値観の違いがありますから、たとえ自らのお金を失ったとしても、満足できるレースを見せてもらったから悔いないと思う人もいるでしょう。それは否定しません。滅多にないことですが、何度かそう感じるレースがあったことも事実です。でも現実は、大半がそうではないことを誰も否定できないはずです。

オートレース=ギャンブルという構図は、やはり不幸だと思います。純粋にバイクレースを楽しんだり、その魅力に惹かれるのは最初だけで、いずれは賭博でお金を得るための「手段」として見てしまうのが現実なのです。
ギャンブルからの脱却こそがオートレースの生き残る道でしょう。しかも公営ギャンブルの中で最初に始めることが大事です。そうすれば社会からの認知も深まってゆくと思います。
車券購入に上限を設ける理由は、まさにここにあるのです。



ギャンブルで儲けることを許さないようです、「公」は。


2013年だったと思いますが、インターネットでの馬券購入で得た所得を申告しなかったので脱税に問われた事件がありました。結果はご存知だと思いますが、この件で私が感じたことは、「公」はギャンブルで儲けることを許さないのだな、ということでした。その理由は外れ馬券をも所得の対象としたことです。

税法上の見解は別にして、要するに国税=公は、ギャンブルで儲けた分もきっちりと申告しろ!その分の税金もしっかりと取るぞ! ということなのでしょう。
所得があれば申告するのが法律では基本とされています。まぁ確かにその通りですが、裁判の結果でもわかる通り、外れ馬券を経費と認めないという国税の見解は否定されました。当然でしょうね。しかも大半の人間がギャンブルでは損をするのに、努力?してたまたま儲かった分にも税金を掛けるとは・・・・。まさしく鬼です。

あなた方「公」は、開帳する際にすでに「テラ銭」として徴収しているはずです、補助金という名目で。百歩譲ってギャンブルで得た不労所得から税金を払ったとしましょう。だったら税金でャンブル依存症対策をする義務があるはずです。どこかの業界団体とか福祉団体とかに寄付をする前に。

経済成長率が高かった頃は給与所得も伸びていたのでそれほど表面化しませんでしたが、現在のような社会では所得が上がることを多くの人は望めません。そのような現状で、片や「公」がギャンブルを開帳し、片や税金も厳しく取り立てる。
最近の報道で知ったことですが、ある市では職員がギャンブル場やパチンコホールを巡って、もし生活保護費受給者がいれば、支給を止めたり返還を求めたりしているそうです。この市が公営競技を開催しているかどうかまでは確認しませんでしたが、一方でギャンブルをすることを煽り(広告等)、一方で貧乏な人たちに対しては厳しく接するという態度。だったら最初からギャンブルを規制しろと言いたくなります。

自己責任と言いながら、自治体ひいては国がギャンブルすることを推奨し、その結果破綻した人やしかけている人たちには、あなたの責任でしょ、と突き放す。繰り返しますがギャンブルには、一定の割合で必ず依存症を発症することが世界的には常識になっているのですから、その危険性を啓蒙しないことは、もはや犯罪的ですらあると思うのです。

公が胴元なのに、ギャンブルで儲けることも許さず、自己責任と突き放す。
何か間違っていると思いませんか?

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車券購入に上限を設ける。その2

前回、車券購入に上限を設けるという考え方の前提になる理由について書きました。基本的には「なるべく不幸な人々を出さない」ためにですが、もう一つとしてギャンブルの要素を減らす意味もあります。


ギャンブルの要素を減らした場合のメリットとデメリット

最近知ったことですがアメリカではサッカーの人気が高まっているそうです。バスケット・野球・アメリカンフットボール、そしてアイスホッケーも加えれば4大スポーツになるそうですが、それらに迫る勢いとか。理由を分析するつもりはないですが、一つ言えることはサッカー専門スタジアムを街中に作っていることが大きいようです。要は行きやすいだけでなく、至近距離で試合を観戦できるという魅力でしょう。さらに言えばサッカーを良く知らない人でも、スタジアムを覗いてみようかと思わせることに気を配っているとか。

ギャンブルではないオートレースにならない限り未来はないと何度も書きましたが、Jリーグと比較するつもりはありませんが、いわゆるサッカーくじ、totoについて考えてみる必要があると思います。

詳しく調べたわけではありませんが、当初のtotoは売上げが伸びず苦戦をしていました。色々と努力?をした結果、少しずつですが増えてきたと聞いていましたが、考えてみれば当り前で、純粋なファンであればサッカーを賭け事の対象にしたくないはずですし、サポーターであれば尚更で、自らが応援するチームの負けを予想したくはないでしょう。
totoの売上げが伸びなかった原因はサッカーファンが健全な証拠です。クラブ経営を支える意味での「くじ」なら購買意欲が出るかもしれませんが、ギャンブルとしての「くじ」ならサッカーファンであればあるほど買いたくはないはずです。

サッカーくじ、文部省の傘下にある日本スポーツ振興センターは「スポーツくじ」と呼んでいるようですが、スポーツくじの基本的な考え方は「宝くじ」のように広く小口の寄付を募るというものらしいです。ですから、通常のギャンブルのような当たり確率では販売しない形態を取っているとのこと。この方針というか理念(?)には賛成ですが、色々な問題も含んでいるので別途また書くつもりです。ただ賭博性を薄めるという意味では参考になると思っています。

ある競技を賭博の対象とした場合、売上げなども含めて一時的に成功することはあるでしょう。しかしそれは一過性の物であり、最初は物珍しさもあって多くの注目を浴びますが、その競技自体に魅力がなければ結局人々は去ってゆきます。ましてや賭博のみの興味なら、儲かる・当たるという要素が見出せなければ尚更です。

ギャンブルの要素を減らして競技自体の魅力を向上させ、さらには実施している場所に人々を呼び込むことができれば将来的な展望が見込めるでしょう。しかしギャンブルに特化した競技は射幸心を煽れば煽るほど、投票券を買った人々の経済的損失が多くなる可能性を否定できないと思います。
遥か昔から賭博で儲かるのは胴元だけと決まっています。それは現代でも変わりはなく、高度成長期ならば多少なりとも損失を取り戻す可能性があったかもしれませんが、今のような世の中ではほぼ不可能と言って良いでしょう。



車券購入上限制の具体的な形

例えば1日当たりの購入金額、または1レースに対しての金額、さらにはマイナンバーを利用した個人に対する金額など、実施可能かどうかは別にして方法としては色々あります。

一番現実的なのは1日当たりの購入金額でしょう。仮に1万円を上限としてその金額のプリペイドカードを発行します(購入)。しかし1人で何枚も買ったら意味がないので事前登録制は必須ですが、ただこの方法だと名前を借りてしまうと複数購入が可能になってしまいます。ですので、プライバシーの問題はありますがマイナンバーの利用が考えられます。ネット購入では個人を特定できますので上限を設けるのは簡単ですが、これも成りすまし、または名義借りの問題をクリアーしないといけません。

いすれにしても個人の購入金額を厳しく管理しなければならず、マイナンバーの妥当性には多少疑問を持っていますが、ギャンブル依存を出さないためには有効な方法であることは間違いないようです。

レース場で購入しようがネットで購入しようが、その金額を施行者に管理されている状態でのギャンブルはきっと窮屈に感じるでしょう。けれどもギャンブルではなく、実際に競技をしている選手たちを応援していると思えばどうでしょうか?
オートレースに限って言えば、ある選手の1着だけを買い続けるとか、ある選手の2着を総流しで買うなどです。車券の種類は単勝・2連単・2連複だけ。付け加えるなら2着限定車券、または3着限定車券などがあると面白いと思うのですが。

上記のような内容、さらには購入金額に上限があるのですから配当金が安くなるのは当然です。しかし、そうすることによってギャンブル性はかなり軽減できるはずです。要は一獲千金を排除することが大事なので、3連単・3連複またはモトロトなどは廃止の対象です。
このような車券ではつまらないと多くの人が感じるでしょう。けれども、できるだけギャンブル性を減らし、射幸心を排除するための方法が他に思いつきませんでした。
「そこまでしてオートレースを残す意味があるのか」と問われれば、正直返す言葉がありません。「ギャンブルありきのオートレースではないのか」という意見も、これまでの歴史を考えれば当然だと思えます。けれども、ギャンブルが持つ悪しき部分から目を背ける訳にはいかないと思うのです。



多くの人が集まれる場所でレースをすることの意味

オートレースが開催されてなくても集客できるようなスペースにすれば、という提案を以前にしました。そのためにはイベントの開催や常設のレストランやショップなどが必要になります。バンクの問題がありますが、競輪や自転車競技または他のモータースポーツを実施しても良いでしょう。
けれども、そのような空間であるなら様々な人々が訪れます。そうなるのが目的なのですから当然ですが、ここで大事なのは未来の大人(子供)たちが入っていることを考えねばなりません。

多くの子供たちが楽しむ場所で「ギャンブル」を見せて良いのでしょうか?


公営競技場への入場は許されても現行法では20歳未満の投票券購入は禁止されています。小学生ぐらいの子供を連れてレース場に来ている家族や親子を時々見かけますが、以前はそのような光景に何の違和感を持ちませんでした。しかし、正直どうなのでしょう。オートレースを観戦することに問題はないと思いますが、ギャンブル=オートレースという理解を子供ながらにしてゆくのでしょうか。ギャンブル=賭博という理解を、いったい何歳ぐらいで認識してゆくのでしょうか。

オートレーサーの多くが、子供の頃に親に連れられて観戦したのが選手になりたいと思ったきっかけだったと、インタビューなどで答えています。それは幼い頃だったり、中学生や高校生の頃だったりですが、オーバルを走る姿に十代の人間や子供が憧れるのは当然でしょう。けれども、多くの大人たちがギャンブルをする光景を見て、同じように自分もギャンブルをやってみたいと思う子がどれだけいるでしょうか。

問題の核心はここなのです。

笑われるかもしれませんが、こんな光景を年甲斐もなく想像してしまうのです。
例えば、思春期の男の子でも女の子でもどっちでもいいですが、初めて訪れた場所でバイクレースをやっていた。よくわからないから何となく観ていたら、1着になった選手がヘルメットを取り、その姿がオーロラビジョンに映し出された。大画面の中にいるその選手は、長い髪を微風に揺らせているアイドル顔負けの愛らしい女性だった。
なんて・・・漫画みたいな話で申し訳ありません。でも、もし、そんな光景に遭遇してしまった思春期の子供たちは、この女子レーサーに何を感じるのでしょうか。憧れ?それとも他の感情?
ただ思うのです。きっと、その子たちの胸の鼓動は激しく波打っているのではないかと。いささかオーバーですが、そんな風景を思い浮かべてしまう自分も少し変かもしれません・・・・。

大抵の大人は、純真さを失えば失うほど成長することを知っています。ギャンブルも同じで、純粋に1人の選手に憧れていたのが、いつしかギャンブルの駒として見るようになってしまう。けれどもそれは、ギャンブルを「楽しむ」大人になった証拠でもあります。同時に、ギャンブル依存という転落への道を歩む可能性を持つことでもあります。
初めてオートレースを観た時、その傍らで車券を握りしめてギャンブル=賭博に興じている大人の姿は、子供たちや思春期の少年少女にどんな影響をもたらすのでしょうか。

Jリーグには多くの子供たちが観戦に来ています。詳しいことは知りませんが、スタジアムでtotoの販売はしているのでしょうか。しかし購入者の6割以上がネットなので、販売していたとしても少人数でしょう。大人も子供も若者も、純粋にサッカーを楽しみ応援に来ているのは間違いないようです。そこに「ギャンブル」の匂いはありません。

不覚にも全く知らなかったのですが、Jリーグ自体は「くじ」に関して一切関わっていないそうですね。逆にスポーツ振興センター側も、Jリーグの運営や日程などには関わることができないそうです。
「スポーツくじ」の在り方には多少なりとも疑問がありますが、この部分は健全だと言って良いでしょう。

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車券購入に上限を設ける。その1

一ヶ月以上ブログを休んでしまいました。私の年齢だと、一度体調を崩すとなかなか回復しないので困ったものです。だいぶ時間が開いてしまいましたが、もし気が向いて読んでいただけたら幸いです。


さて船橋オートの廃止も、いよいよカウントダウンという段階になりました。各地に場外車券場を設置して売上げ低迷に歯止めを掛けようとしていますが、正直、今さらという気持ちです。「売る」ことだけを拡張しても肝心の中身に問題あるのでは効果があるとは思えません。さらに言えばレース場が一つ減ることの影響は決して小さくなく、その事実はオートの衰退に拍車をかけることは間違いないでしょう。

売上げ低迷の理由を考えることに意味がないわけではありませんが、ブログを始めるきっかけは、どうしたら歯止めを掛けることができるのかが大事に思えたからです。しかし皮肉なことに、考えれば考えるほどオートレースの抱える問題点が浮き彫りになってくるのです。

今まで私はギャンブルの存在そのものに何の疑問を持っていませんでした。十代の頃からギャンブルに浸かり、多少の波はあったものの続けてきました。ですからオートレースは存在して当然という感覚でした。けれども衰退の原因を考えると、番組構成や選手育成やマシンの選択などの細かい部分もありますが、それらは枝葉末節で、オートレースがギャンブルである以上は衰退してゆくのは当然であり、むしろ自然の摂理ではないかとさえ思えてくるのです。前回「ギャンブル特化」と表現しましたが、改めて考えるまでもなくオートレースは最初からギャンブルとして特化されていました。それは他の公営ギャンブルでも同じことです。



自転車競技人口が増えない理由は何でしょうか?

今回のタイトルである「車券購入に上限を設ける」という提案は、オートレースに限らず公営ギャンブルと呼ばれるものを、ある意味違う形で残すための方策でもあります。しかしその内容を書くには、なぜそのような考え方になったのかを説明しなければなりません。

「ギャンブルとしてのレース」には限界があると思う理由として競輪があります。
競輪に手を出したのはだいぶ前で、それもほんの少しでした。ただ私にとっての競輪は世界に繫がるスポーツというイメージがあったのです。
最大の理由は中野浩一という選手の存在です。改めて説明するまでもなく、スプリントという自転車競技で世界選手権10連覇を成し遂げた人です。
当時の私は10代でしたが、競輪など滅多に取り上げない全国紙やNHKで報道されたのを記憶しています。今でも欧州で一番有名な日本人は中野浩一だという伝説も、あながち誇張ではないと思っています。
その後いつ頃からだったかは記憶していませんが、「ケイリン」という名で自転車競技の正式種目になったのには驚かされました。そしてオリンピックでも正式な競技となり、プロとアマの垣根が取り払われたことから競輪選手たちが自転車競技に参入するようになりました。事実、ケイリンではメダルを取れませんでしたが、他の種目ではメダルを取った選手が何人かいます。
何が言いたいかというと、本来なら競輪界にとって最大のチャンスであったにも関わらず、競輪を「ギャンブル」から脱却させる機会を逃したことです。

仮に競輪業界と自転車競技団体などが一括りになって自転車競技の大衆化実現を目指したら、競技人口の増加に繫がって中野浩一氏に続く選手が誕生したのではないでしょうか。ただし競輪を自転車競技の一つとして世界に普及させるためには、ギャンブルとしての実施やその要素を取り除かなければなりません。実際に聞いたことですが、欧州の選手たちは日本の競輪に出場するのを嫌がったらしいです。

「もし」とか「たら」は言っても仕方がないことですが、自転車競技の大衆化が実現していれば現在のような状況もなかったのではと思います。結局、競輪選手がオリンピックや世界選手権でどんなに活躍しても、「ギャンブルとしてのレース」をする人たちというイメージを一般の人々たちから拭い去ることが出来なかったようです。
競輪衰退の理由について私とは違う意見の人もいるでしょう。賛否があって当然ですのでこれ以上は書きませんが、一つだけ加えれば一時の競輪の隆盛から考えて、なぜ自転車競技人口を増やすことができなかったか、その関係性を見ることは重要だと思います。

「ギャンブルとしてのレース」という概念はあくまでも私の価値観ですから、ギャンブルだから面白いという考えを否定するつもりはありません。けれどもギャンブルに纏わる弊害は大きく、それは決して無視できるレベルではないと思っています。



社会の在り方に疑問が持ったきっかけ

もう以前のことですが、いわゆる「ヤミ金」という存在が世間を騒がせた頃、私はある新聞記事を読んで考えさせられました。国名は忘れましたが、欧州のある国の消費者金融の実情を扱った記事で、その国では「ヤミ金」自体が決して存在できないという内容でした。

市民の意見として書かれていたのは下記の通りです(概略になります)
❶高金利(違法)による勧誘が広告として掲載されれば間違いなく当局に通報する。
❷違法業者から知り合い等が借りている場合、または口コミなどで見聞した場合でも通報する。

この国での個人への小口金融は銀行が主で、それも年7%とか8%ぐらいだったと記憶しています。基本的には担保もないとのこと。まぁこのような状況なら「ヤミ金」など存在できないでしょうね。

次は通報する理由です。
そのような高金利では返済できるはずがなく、借りた人が破綻するのは当然で、ということは最初から親族や周囲の人間からお金を取ろうとしているのであり、これは犯罪行為であることが明らかだ。市民としての考え方の前提は、高利貸に飛びついてしまうのは何か特別な事情があるはずで、そうでなければ非常識な金利を提示している金融業者から借りるはずがない。ということは、困っている人の弱みにつけ込む人間が悪いのであり、借りようとした人には責任はないというものらしいです。簡単に言えば、破綻を前提とした貸出しはあり得ないということでしょう。

この記事を読んだ時、人権意識の高い国は違うなと素直に思いました。日本では未だに「借りた以上はどんな理由があっても返さなければいけない」「貸した方も悪いけど借りた方も悪い」「どんな理由があっても一度は納得したのだから自己責任だ」などと言われてしまいますから。

当時の私は小さいながら会社をやっていたのですが、銀行はなかなか融資をしてくれず金利の高い業者から借りてしまい返済に四苦八苦していました。ヤミ金融や違法金利を謳っている業者からは借りませんでしたが、国によって小口金融の在り方がこんなにも違うのかと思ったものです。
現在ではヤミ金融もほとんど見かけなくなりましたが、いわゆる消費者金融の金利は合法とはいえ決して低いとは言えません。自分の経験からも金利が10%を超えると正直つらいと思います。



ギャンブルは人々を不幸にするのか、それとも幸福にするのか。

金利一つを見ても、なぜこんなに違うのでしょうか?
私がたどり着いた結論は「社会の在り方」をどう捉えるかの違いだと思いました。それは「なるべく不幸な人々を出さない」社会や仕組みにするのか、「なるべく多くの人々が幸福になる」社会と仕組みを作るべきなのか、ということです。

何を基準に「幸福」とするのかは価値観の違いがあるので一言では言えませんが、ここでは「経済的」という意味になります。ですから不幸とは簡単に言えば「貧困」であり、幸福とは「金持ち」になります。

現在の日本の政策は、いわゆる「トリクルダウン」的な発想、もしくは新自由主義経済に近いようです。この考え方の基本は、まず一部の人々が豊かになって、それらの人々から滴り落ちてくる「果実」が多くの人々に行き渡れば社会全体も裕福になる、ということらしいですね。そのためには色々な規制を取り払うべきで、経済界は労働規制を取り払うことを一番に願っているとか。
このような考え方では基本的に福祉とか弱者救済は、アメリカのように慈善事業によって行われることが多くなります。要は、より多くの人々が裕福なれば、貧困問題や福祉はその余力で解決できるということでしょう。
「なるべく多くの人々が幸福になる」社会や仕組みにするというのは、このような考え方が前提になるのではと私は思っています。

では「なるべく不幸な人々を出さない」社会や仕組みとは何でしょうか。
非常に大雑把な表現になりますが、要は経済活動よりも人権を重視する社会や仕組みということになるのではないでしょうか。具体的には消費者金融の金利を低利に抑えるとか、労働時間を厳しく制限するのも該当するでしょう。ヨーロッパの一部の国では人権侵害を引き起こす経済活動には規制が加えられているようで、代表的なのは北欧の各国が挙げられます。

ここで経済思想について語るつもりも資格も私にはないので、これ以上は書きませんが、このようなことを書いた理由は、ギャンブルをどのように扱うかで社会の在り方がはっきりするからです。

ギャンブルは人々を幸福にするのでしょうか?それとも不幸にするのでしょうか?
ギャンブルを規制すれば「なるべく不幸な人々を出さない」社会でしょうか?
ギャンブルを自由にすれば「なるべく多くの人々が幸福になる」社会でしょうか?


適度に付き合えるのならギャンブルは楽しみになる、というのは事実だと思います。ならば「適度にしか付き合えないような仕組みにする」という考え方があっても良いと思うのです。
「車券購入に上限を設ける」というのは、このような考え方を前提としています。

次回は具体的な仕組みについて書きたいと思います。

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Author:カイトアキラ
もうすぐ老人と呼ばれる年齢になりました。
今までオートレース・ギャンブルについて書きましたが、今の日本の状況を考えると、たとえ影響力がなくても、もしかしたら若い人たちに響いてくれたら、という微かな希望を持ってブログを続けようと思います。
偏っていると感じるかもしれませんが、私は個人ですので、ご了承の程をお願いします。

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