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この国の未来を考える

読解力も作文技術も教えない「日本という国」

日本人は本当に本を読まなくなったのか?

年末も押し迫ってきたのでこの一年を振り返るという記事が目につきます。と言ってもスパコン詐欺やリニア談合は、まだまだこれからといった感じですから年が明けても目が離せませんね。
 今回はいつもと違った視点というか内容を書きました。たまにはこういうものがあっても良いでしょう。けれどもこれもまた「この国の問題点」であることは間違いないのですが。

 

 本が読まれなくなったとか雑誌も売れないなどと、いわゆる出版不況と言われるようになって久しいです。特に地方での書店数の激減が著しいですし、作家と呼ばれる人たちが文学賞などを取っても必ずしも売れるとは限らず、文筆業一本で生計を立てるのは難しいと聞いています。
 最近だったと思いますが、文藝春秋の社長が「新刊本は図書館に置かないでほしい。売れなくて困っているから」と言ったとか。まぁ、このような人物が社長になるから本が売れなくなるとも言えるのですが、それはともかくとして、はたして本が〝売れない・読まれない〟のは書き手や出版する側の問題なのか、それとも読み手の問題なのでしょうか。

 

 書店では今でも、いわゆる「嫌韓本・嫌中本」もしくは「日本はスゴイ本」が並んでいます。当初の頃は数ページ立ち読みをしたのですが、まぁ一円の価値もない代物だということはすぐに理解できたので、なぜこんな本を積み上げるほど置くのだろうと不思議でした。しかし、これらの本を買うコアな人々が一定数いるので、書店としても売上げがそれなりに見込めるという解説記事に接して、なるほどと納得しました。本の売上げが伸びないための副作用なのでしょうかね、淋しい限りですが。

 

さらには比較的単価が安いこと、平易な文章で書かれているという二点を指摘していました。確かに〝平易な文章〟の方がわかりやすいのは本当です。けれどもいくらわかりやすくても、書かれていることが間違っていれば何の意味もないことは言うまでもありません。本来なら、そのような本は出版されるべきではない。なぜならそれは出版社としての最低限の倫理だと考えるからです。ですが商売である以上、一定数は売れるという現実には逆らえないのでしょうね。何とも悩ましいことです。

 

では、いわゆるリベラル側はどうかというと、まずは書籍の単価が高い。加えて〝難解な文章〟が多くてわかりづらい。けれども書かれていることは正しいことばかりなのですが。ただはっきりしているのは、書き手の側の読まれるための努力が乏しいということです。
 もちろん出版不況の原因は上記だけではありません。なぜなら通信機器の発達がそれまでの読書の習慣を、根底からとは言わないまでも大きく変えようとしているのは確かだからです。さらにはゲームや音楽や動画、または自ら発信できるシステムなど、読書という行為はそれらと競争しなければならない。地上波ですら苦戦しているのですから、そんな時代に文字を読んでもらおうとしたら並大抵の努力では足りないのは当然だと思います。

 

でも今の日本人は、本当に文字を読むことを減らしているのでしょうか? 必ずしもそうではないと私は思っています。その理由は電車での周囲の乗客を見渡すと、大半の人はスマホとにらめっこをしていますが、時々隣の人のスマホに目をやると、だいたいはどこかのサイトを閲覧しているか、もしくはゲーム、またはラインをしていることが多い。ですからゲームは別としても、それ以外は「文字」を読む、または「文字」を表記することが必要なものばかりです。そんな様子を見れば、読むとか書くとかという行為が減っているとはどうしても思えない。少なくとも読むという行為が減少しているように感じるのは〝媒体〟の問題ではないか。単純に、紙から電子機器へと移行しているだけ、とも考えられるのです。ならば結局は中身の問題だと思えてなりません。

 

しかし、だからといって日本人の読解力や作文能力が劣っていないのか、と問われたら、私の答えは「劣っている」しかありません。いや、そもそも日本人は、読解も作文も「技術として教育されていない」と答えるでしょう。 

 

 

出題する側の文章がデタラメでは生徒はいい迷惑だ!

一ヶ月近く前のことで恐縮ですが、東京新聞の夕刊に「中高生の読解力ピンチ」というタイトルの記事がありました。
 概要は、主語と述語の関係といった「係り受け」などの、文章の基本的な構造を理解できていな中高生が多くいるとみられることが、国立情報学研究所の研究チームの調査でわかったというものです。研究所の教授は、読解力の低下は社会生活を送ることにも影響すると懸念していると書かれていました。

 

まぁ指摘自体に異論はありません。中高生に限らず大人でもビジネス文書や作業指示書をロクに理解できない人がいますからね。それで、どんな文章を例題に挙げたのかなと読んでみたら、正直、呆れてしまいました。中高生の読解力を問う以前に、まずは出題者の作文技術を問いたくなる。同時に問題の出し方自体が間違っていると思いました。似た文書の意味を比べるという目的らしいですが、とりあえず全文を掲載します。

 

「幕府は、一六三九年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた」
これは中学校教科書の一文から引用したそうです。
「一六三九年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた」
この二つの文章が同じ意味か、という問いだそうです。

 

「同じ」と誤答した中学生は約43%、高校生では約28%だったそうです。確かにこの程度の文章で誤答してしまうのは問題かもしれません。しかし私に言わせれば、出題の文章自体に〝致命的欠陥〟があるのに、それを棚上げにして出題する神経が問題なのです。さらには義務教育課程で「係り受け」とは何か、または作文をする際に「係り受け」をどう使うべきかを具体的に教えていないのにも係わらず、それで読解力が低下しているとは本末転倒も甚だしいと言うしかありません。

 

まず、もし歴史の事実を知っている子供だったら、この問題では「同じ」とは答えようがないでしょう。であれば出題した意味などなくなってしまいます。では、あくまでも文章として、国語の技術としての出題なら「てにをは」を変えたとしても、少なくとも文章構成を変更してはいけないのです。ところがこの問いはその禁じ手を犯しているのです。

 

「幕府は、一六三九年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた」
                
まずは句読点を一切変えずに語順だけ変えてみましょう。
「一六三九年、幕府は、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた」
                
さらに句読点も語順も変えてみる。
「一六三九年、幕府はポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた」
                
さらに副詞や動詞も変えて改良すると、
「一六三九年、ポルトガル人を追放した幕府は沿岸の警備を大名命じた」
比較してください。文章構成を変更しているでしょうか? 

 

ところが出題された問いは構成を変えてしまっているのです。
「一六三九年、ポルトガル人は追放され幕府は沿岸の警備を大名から命じられた

 

構成の何を変えたのか? それは「幕府は」の語順を変えたことで、ポルトガル人が誰から追放されたのかを不明にした。しかも「てにをは」まで変更して。
 仮に、単純に意味が同じかどうかの問題だとしたら、いったい何の教科だというのでしょうか。歴史の問題というのなら、まぁ出来は悪いけれど理解できる。しかし「係り受け」の理解度を問うているのなら「てにをは」の変更のみにすべきであって、語順や句読点を変えるのは邪道としか言いようがありません。

 

もし、私の改良した三番目の文章と出題された文章での問いだったら、はたして「同じ」と答える中高生がいるでしょうか? 少なくとも沿岸警備を命じたのがどちらかは理解できるはずです。それでも「同じ」と答える生徒だったら、それは〝学習障害〟だと判断すべきであって読解力とは関係ないと考えるべきだと思います。

 

 どうですか? 語順と句読点の位置を変えるだけで、これだけ「わかりやすく」なるのです。なぜかというと「係り受け」の関係、私は「修飾する側とされる側」の関係と言っていますが、これはなるべく近い方が良いのです。この場合は幕府と大名ですから、間に「沿岸の警備」だけの方がよりを明瞭になるのです。

 

 もう一つ重要な点は主語と述語という表現です。
「幕府は、一六三九年、ポルトガル人を追放し・・・・」という書き方は、間違いなく英語文法の影響を受けた悪しき日本語文です。要するにIとかYOUとかHEとか、さらにはITとかの、主語の支配力が非常に強い英語と、それほど支配力のない日本語では「幕府は、」と表記することに無理があるのです。そもそも英語と日本語では言語構造が違うのですから主語と述語という概念もそぐわない。「ポルトガル人を追放した幕府は」と改変したのは、こちらの方が日本語の構造体に合っており、しかも「わかりやすい」からなのです。

 

日本語は主語と述語という概念よりも「主部」と「述部」とした方が正しいと私は考えています。出題文章は「幕府は」→ポルトガル人を追放し、「幕府は」→沿岸の警備を大名に命じた、となっているので、幕府が何をしたのかをより強調した文章です。しかし「ポルトガル人を追放した幕府は」と説明を付けて一つの句にすれば、特に何かを強調するわけでもなく、幕府のしたことの二点を並列に扱う文章になります。
 もちろん文章としてはどちらも問題ありません。ただ、どちらがわかりやすいか、または読む側にとって伝わりやすいのはどちらか、という点だけです。個人によって見解は分かれるでしょうが、私は後者の方がわかりやすい。ですから主語ではなく、句とか節の「主部」とした方が良いと考えています。

 

それは述部でも同じで、述語とは動詞が支配しているものとすれば「命じた」または「命じられた」になります。しかし「○○に○○を命じた」という動詞に説明を付けて一つの節とすれば、関係性も明確になって述部という形になります。文章の基本を主部と述部として構成し、修飾する側とされる側をより近くに置けば、読解はもとより作文も容易くできるようになるのです。

 

 みなさんは句読点の打ち方を教えられたことはありますか? おそらく、きちんと教えられたことはないと思います。なにしろ国語教師がデタラメの句読点を打っていますからね。
 日本語には句読点を打つ原則は二つしかありません。今回は説明を省きますけれど、下記のように句読点がなくても日本語は大丈夫な優れた言語なのですよ。
「一六三九年にポルトガル人を追放した幕府は沿岸の警備を大名に命じた」
「沿岸の警備を大名から命じられた幕府は一六三九年にポルトガル人を追放した」
わかりやすくするために打つとしたら一ヶ所だけです。それはみなさんが考えてくださいね。

 

 句読点に関して、実にバカバカしい文章を問題にしたようです。同じ記事からの引用です。
「仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アフリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアにおもに広がっている」
を読んで、オセアニアに広がっている宗教を「キリスト教」と答えられなかった中学生が約38%、高校生が約28%だった。

 

 はっきり言ってこんな文章を書く人間は「バカ」です。日本語を理解していないし、句読点の意味すらわかっていない。こんな人間に問題を出す資格などない。よろしいですか? この文章は句読点など一つもいらないのです。
仏教は東南アジア東アジアに。キリスト教はヨーロッパ南北アメリカオセアニアにイスラム教は北アフリカ西アジア中央アジア東南アジアにおもに広がっている
 または・(中点)を使っても良い。
仏教は東南アジア・東アジアに。キリスト教はヨーロッパ・南北アメリカ・オセアニアに。イスラム教は北アフリカ・西アジア・中央アジア・東南アジアにおもに広がっている

 

 どうですか? これでも間違えますかね? だいたい「仏教は○○と○○に」で文節が終わっているのです。ならば『。』を使わねばならないのに、わざわざそこに『、』を使っている。『オセアニアに、』『オセアニアに。』とすればそこで文章が完結するので間違えるはずがない。これは文章を破壊している典型的な例と言えるでしょう。
 中高生のみなさん、こんな文章はわからなくていいですよ! こんな文章を即座に理解する方がおかしい。そもそも出題された文章自体が「零点」と言える代物なのですから。

 

 

 

なぜ、わざわざ難しく、しかも間違いやすくするのか

 長くなってしまいましたが大事なことは、日本語の持つ本来の特性を教えずに、読解力が落ちた、やれ作文ができないとか言うこと自体がおかしいのです。英語には、やれ文法がどうたら、点の打ち方をどうのとやかましく言うくせに、母語である日本語教育をきちんとやらないのです、日本というこの国は。

 

みなさんも思い当たることがあると思います。例えば大学入試の試験問題などですが、何を問うているのかわからない文章がありませんでしたか? 数学であろうが化学であろうが世界史であろうが問題文はすべて日本語です。本来なら英語の試験は問題文も英語ですべきでしょう。ところが試験問題はロクでもないというか、わかりづらい日本語文章になっていることが多い。まぁ振り落とすための引っ掛け問題にしているだけなのですが。ただ少子化が進んでいる最近はどうなのか知らないですけどね。
 ところがそんなくだらない問題を、要領よく、というか単に記憶力だけですが、時間内に回答できる人間が優秀とされるのが日本なのです。けれども今の官僚たちを見れば理解できますよね。言葉を捏ね繰り回し、詭弁を弄し、なんとか逃げようとする醜い姿。これが優秀と言われた人間の成れの果てなのです。

 

文科省が行っている国語教育は論理的な思考をできなくするためでは、と私は思っています。民族としての言葉を尊重し、その言語体系と構造をきちんと教えれば誰でも読解力など身に付くのです。けれどもそれでは困る連中がいるのです。論理的思考ができて論理的な文章も書ける、そして論理的な発言や演説もできる人が増えたらどうなるか。本来なら民主主義をより進化させて実に喜ばしいことなのですが、そうなってしまうと〝騙せなくなる〟もしくは〝愚民〟と呼べる存在もなくなってしまう。だが今の日本を見れば理解できるでしょう。まさに正反対になっているではありませんか。

 

でも勘違いしないでくださいね。論理的な文章とは「わかりやすい文章」のことですから。世の中には難解な用語や英語をやたら使うことが「高級な文章」と思っている〝おバカ〟がたくさんいます。けれどもこういう連中は、論理的ではないから「わかりやすい文章」が書けないのです。だからそんな文章に出くわしたら即座にゴミ箱に捨てましょう。そして、なんてバカな奴らだと笑ってあげましょう。
 それからもう一つ付け加えると、英語やヨーロッパ語の方が論理的で優れており高級だと言う「救いようないアホ」もいます。しかしどの言語でも、本質的に「非論理的」ということはあり得ません。もし非論理的だったとしたら、そもそも言語として成立しないのです。ですから特徴や構造上の違いがあったとしても、どちらが論理的とか、ましてや高級とか低級などということもありません。それなのに、論理性など理解できない小学生のうちから〝英語〟を勉強させようとしているのが「日本という国」なのです。実に愚かなことです。なぜなら英語圏で長期間暮らす日本人がどれだけいるというのでしょうか? 大半の日本人は英語を必要としていないのに。
 あっ、そっか、この国は〝ほぼ植民地同然〟でしたね。だったら日本語の読解力など向上しなくてもいいのかな?

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2019年は強権国家への道を阻むことができた最後の年だったと、20年後や30年後に言われているかもしれません。もっともその時、日本という国家または日本人という民族が存続しているのかわからないけれど。
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