この国の未来を考える

差別とは何か

差別をする側とされる側の関係とは

 よく「私は差別をしない」とか「差別をしたことはない」とか「差別は絶対いけない」などと言う人がいます。しかし私は、このような言葉は発することは決してしません。もし差別を受けている人が目の前にいたら、私はこう言うでしょう。
「差別をしないなどとは、とても言えません。なぜなら私は〝差別をする側〟に属している人間だということを認識しているからです」

 

差別をしないとは、いったいどういうことなのでしょうか。これは、自分は〝差別をされる側〟ではないと宣言しているのと同じなのです。ところがこのような人間は、自ら差別する側とされる側とに分けているのをまったく気づいていないのです。
 差別される側の人間からすれば、いったい何様なの? 差別をしないことに感謝しろ、とでも言いたいわけ? と思うでしょう。けれども差別をする側に属している人間は、差別を受けている人たちが、そんな感情を引き起こしているとは想像もしていないのです。

 

上記のようなことは、被差別部落やアイヌの人たち、そして在日朝鮮人や沖縄の人々に対して現在でも日常的に行われています。さらに範囲を広げるなら男性による女性差別もあり、他には障害者に対する差別も厳に存在しています。
 私は男で健常者であり、出自も上記した以外のものですから、間違いなく「差別をする側」の人間なのです。

 

 

差別の構造

差別の基本構造は原則として多数が少数に行うものと規定できるでしょう。日本おける在日や被差別部落、そしてアイヌや沖縄、さらには健常者と障害者の関係もこれに該当します。
 しかし必ずしも、多数が絶えず差別をする側になるわけではありません。例えば黒人差別は数というよりも支配構造が起因しています。説明するまでもないでしょうが、奴隷制度がなければ今日のような差別は生まれなかったはずですし、もしアジア人が奴隷制度の犠牲者だったとしたら黄色人差別が世界中に広がっていたでしょう。まずは支配者と従属者の関係が第一にあります。
 けれども黒人差別をより深刻化させたのは、黒人は白人よりも劣っているという何の根拠もない言説を、支配構造を維持するために支配する側が蔓延らせて、黒人を侮蔑と嘲笑の対象にしたことでした。

 

 このような方法は民族差別にも見られます。Aという民族はBという民族よりも劣っている、だからBがAを支配するのは当然だ、と差別を正当化したことです。一番わかりやすいのが戦前の日本、いわゆる大日本帝国がアジア各地を支配するために用いた〝妄想〟です。

 

 差別を生み出す要因には身分制度もあります。被差別部落という言葉は近代以降に誕生した言葉ですが、身分制の最下層に組み込まれたのは江戸幕府の時代でした。これらの研究書などを読むと、武士階級が他の階級を支配するために用いたことがわかります。端的に言えば最下層の民を作ることによって中間層の不満を吸収する手法です。要するに階級(階層)を人為的に作り出し、さらには対立を煽って不満のガス抜きを行う。この方法は日本に限らず他国でも他民族でも散見できます。

 

差別構造とは、ある地域(国)の人種や民族や宗教における多数と少数の関係、またはある地域(国)の支配者階級と従属者階級との関係、そして全ての要素を含んだ身分制度が生み出したものと言えるでしょう。しかしそこには共通点があります。それは、すべて人為的に作られたものだということです。

 

 

 

差別の本質と、その〝幻想〟

 1960年代、キング牧師と並んで多大な影響力を持っていた黒人解放指導者・マルコムXの有名な言葉があります。
Black is Beautiful」=黒は美しい
この言葉の裏には「漂白されるほど人間は醜くなる」という意味があり、白人に対する敵愾心を助長させる部分もありました。

 

 もちろん、どちらが美しいなどと言うことは価値観の問題ですから、この言葉通り受け取るのは無意味です。けれども、こう発せられずにはいられないほど、アメリカにおける黒人差別が酷かったということなのです。

 

 この言葉を持ち出したのには理由があります。それは差別の本質を表しているからです。何を美しいと感じるかは個人の問題でありながら、それを人種・民族・性、そして身体的特徴とに振り分けて決めつけたら、それは紛れもない「差別」となるからです。

 

 黒は美しくて黄色は醜い、日本人は優れているが朝鮮人は劣っている、女性は男性よりも能力がない、社会にとって身体障害者は必要ない、などは、どれもこれも「思い込み」でしかなく、そこには科学的根拠もない「デッチ上げ」に過ぎない。
 何を美しいと感じるか、何を持って優劣を決めるのか、そもそも能力とは何か、そして身体に障害のある人は不幸なのか。これらのことを一律に判断することなど絶対にできないのに、それらを思い込みとデッチ上げで決めつけて、それをもって迫害・弾圧・侮蔑・嘲笑するのが差別なのです。
 

 

 

ブラックフェイスの意味

 ダウンタウンのブラックフェイス問題ですが、その反応等などを見ていると、日本人が「差別とは何か」をまったくわかっていないことを示しました。あまりにも無知で学習能力に欠ける日本人が多いので、なるべく簡単に書きます。特に日本テレビ関係者、さらにはダウンタウン御本人も含めて。

 

 エディ・マーフィーをリスペクトしているし、顔を黒く塗ったのも、エディ・マーフィーのマネということを強調するためで、決して差別の意図はなかったというのを理由にしているようです。
 ここで疑問です。エディ・マーフィーをリスペクトしているというのなら、彼の特徴的な芸であるアメリカンジョークや言い回しを浜田氏は真似ていたのですか? 英語では無理だとしても、それを日本語で表現するとか、またはしぐさを真似るなどをしていたのですか? 芸に対して、またはコメディアンという意味でのリスペクトあるならば、本来はそういうものだと私は思いますが。

 

 例えばNBAの元選手でマイケル・ジョーダンのモノマネを日本人芸人がしたとします。その芸人は小柄で、マイケル・ジョーダンとは似ても似つかないのですが、子供の時からバスケットが好きでマイケル・ジョーダンが憧れでした。だからプレースタイルを必死で真似したのです。
 しかしダンクシュートなどできるはずもない。けれどもこの芸人は、ある時ふと思ったのです。もし日本人である自分がジョーダンのプレーをマネしたら、そのギャップが面白いのではないか、と。ダンクをやろうとしても、届かなくてジタバタする姿は間違いなく面白いはずだ、と。

 

もしジョーダン本人がその芸を見たらどう思うでしょうか? 間違いなく笑い転げると思います。なぜなら体型も運動能力も劣っている日本人が、ジョーダンのプレーを真似ることは滑稽以外の何ものでもなく、間違いなくコミカルな動きになるからです。渡辺直美さんがビヨンセのモノマネをするのと理屈は同じです。
 けれどもジョーダンはその芸人を怒るでしょうか? 私はリスペクトすると思っています。なぜなら自分のプレーを真似るとすれば相当な研究と運動能力が必要なるからで、何よりもバスケットが好きでなければできない。そのことをジョーダンなら間違いなく理解するからです。

 

しかし、もしその芸人が顔を黒く塗っていたら、ジョーダンはどう感じるでしょうか? おそらく不快に思うでしょう。なぜなら顔を黒く塗ることは、バスケットとは何の関係もなくプレースタイルにも関係しない。何よりも顔や皮膚を黒くしたからといってバスケットが上手く見えるわけでもない。であれば、これは黒人であることを強調するためか、それとも皮膚の色に対する偏見なのか、と感じるのが自然でしょう。

 

 これをイチロー選手に当てはめてください。彼がメジャーで颯爽とデビューした時、そのプレースタイルに多くのアメリカの子供たちが憧れて真似をしました。けれども、もしアメリカの子供たちが皮膚や顔を黄色くしたら、みなさんはどう感じますか? リスペクトしていると思いますか? それとも侮蔑や嘲笑だと感じますか? ここでもう一度考えてほしいのです。野球に皮膚の色は関係しますか?

 

ブラックフェイス問題については、いわゆるシチュエーションギャップを狙った笑いだった、としている記事を読みました。だとしたら、なおさら問題です。なぜなら他の出演者は塗っていないのに、浜田氏だけが塗っていたからです。しかも黒くということは、黒人を強調している以外に何かあるでしょうか? もしエディ・マーフィーを知らない人が見たら黒人という設定だと思うでしょうし、塗っているのが浜田氏だけなのですから、これは皮膚の色の違いによるギャップを笑いにしたのだな、と感じるのは当り前ではありませんか?
 皮膚の色を笑いにしたのなら、人種・身体的特徴を強調して〝嘲笑〟したのなら、それは紛れもない差別です。意図があったかどうかなど問題ではない。そうすること自体がダメなのです。
 

差別とは何かを理解していない愚かな人々に教えておきます。もし黒人コメディアンが、自らの皮膚の色を笑いにした場合は差別にはなりません。例えば白人に憧れている黒人が、皮膚の色を少しでも薄めようとしてエステに通う姿を演じたら、その滑稽さや、白人に憧れる心情を笑うのであって、持って生まれた皮膚の色を笑いにしたことにはならないのです。

 

もう一つの例を上げておきましょう。1970年代から1980年代にかけての日本人の海外旅行が話題になったことがあります。大半が団体旅行で、そのスタイルはポロシャツにスラックス、そして首からは必ずカメラをぶら下げているという姿でした。何をするにも団体で行動する光景が気持ち悪いと、特に欧米からは嘲笑と侮蔑の対象になったのです。少しですが、今の中国人団体観光客の「爆買いツァー」と似たところがありますけれど。
 もしこれを欧米のコメディアンが日本人の様相で、なおかつステレオタイプにして演じたら人種差別として批判されるでしょう。けれども日本人コメディアンが演じれば、海外旅行での日本人の滑稽さを笑った、ただの自虐ネタに過ぎないのです。ですから中国人の「爆買いツァー」を笑いにしていいのは、あくまでも中国人コメディアンなのです。

 

 おわかりですか? 人種や民族や身体的特徴を〝笑い〟にして良いのは、あくまでも当事者だけということを。あなただって他人から笑われるのは嫌でしょ? しかも自分では決して変えられないもので笑われるのは。

 

差別主義者と排外主義者に言っておきます。世界から見たら日本人は圧倒的に少数民族です。もし米朝戦争で日本人が難民になったら、どこに行っても少数民族として扱われるのです。その時は、どうか苛めないでください、とでも言いますか?
 みんな「お花畑」の「平和ボケ」のタカ派ならぬ「バカ派」ばかりだから、自分たちが少数者になるとは決して思っていないのです。なんとも「おめでたい人間」たちですね。

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Author:カイトアキラ
2017年の衆院選は歴史の転換期の一つに数えられるかもしれません。それは良い意味なのか悪い意味なのか、まだ誰にもわかりません。ただ私の感覚では悪い方向へと向かっているという気持ちが強くあります。しかし決して諦めるつもりもありません。私個人のできることなどたかがしれていますが、やらないよりやった方が良いことは間違いありません。そんな気持ちで今後もブログを続けます。

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